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散り姿 枯れ姿

自分はなぜこんなにも散りゆく花に惹かれるのだろう、、、

Gallery 1
散り姿に惹かれて
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Gallery 2
始まりと終わり
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Gallery 3
何れもまた華なり


◆ Gallery 1 散り姿に惹かれて
花などの散り姿、枯れ姿などを集めた作品集です。
(ポートフォリオの散り姿・枯れ姿カテゴリに移行)

◆ Gallery 2 始まりと終わり
「始まり」と「終わり」に着目した組写真の作品集です。

◆ Gallery 3 何れもまた華なり
「散る」「枯れる」「萎れる」など様々な花の終わり方を。


「自分はなぜこんなにも散りゆく花に惹かれるのだろう、、、」
心惹かれて撮っていても自分でも分からない部分でした。

一つには単純により「味」があると言うのもあると思います。
新品の道具よりも使いこまれた道具の方が「味」がある。
それは傷や汚れの一つ一つにその物のが過ごしてきた時間の流れ、歴史を感じるからかも知れません。
私にとっては花の散り姿もそれと同じで、咲き始めの花はキズも少なく瑞々しくどれも美しいですが、散りゆく時にはそれぞれの歴史と個性がより強く出る。
そう感じるのです。
ただ、そんな単純なものではないものも自身の中に感じていました。
具体的に何かと言うのはしばらく自分でも分からないままでしたが。

しかし最近になって一つの言葉が散り姿とリンクし始めました。
それは「無常」という言葉。
無常とは「常にそのままでは無い」、つまり変化し時には終わり時には生まれるという事。
インド仏教でいうところの「無常観」とはまた違うと思いますが、織田信長が好んだという敦盛(幸若舞)の中にも

「思へばこの世は常の住み家にあらず
 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
 金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
 人間五十年、化天(下天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」

という一節があり、「人生はほんの一時の儚い夢のようである。」と謡っています。
幸若舞の敦盛は儚い事(無常である事)を嘆く意味が強いようですが、信長のそれはその僅かな時を懸命に生きろという意味のように感じます。
私は後者「ほんの一時の人生であればこそ刹那を、一期一会を大切にする」という想いに非常に共感を覚え、「世は無常なればこそ懸命に生きるのだ」という思いに駆られるのです。
その「無常」の象徴としての「散り姿」に惹かれるのかなと。
林 芙美子さんの「花の命は短くて」ではありませんが、花は常に姿を変え「苦しきことのみ多かりき」とも思えるほど一時に咲き一時に散って行きます。
しかし花はその命の短さを嘆く事も無く、ただただ懸命に咲き誇りその役目を果たします。
美しく潔く散って行くのも、人知れずひっそりと枯れて行くのも、例え汚れ萎れて行ったとしても、それはどれもほんの一時の瞬きであり、懸命に生きた結果であればどれも「華」なのです。
人もきっと同じ。どれだけ生きたかや結果を残したかではなく「無常の世を懸命に生きたか」が大切なのだと感じるのです。


しかし無常のイメージの象徴である一方で、実際の花(植物)はもっともっと強かで花の時期は一時の形態であって儚く散ったように見えても次の年には変わり無く花を咲かせます。
そうした植物たちの営みの中に私は「繰り返し、循環していく中での永遠」という言葉を連想します。

この言葉は以前見たTV番組の中で偶然聞いた言葉で、その中で伊勢神宮の宮司さんが日本の「美」というか価値観は「繰り返し、循環していく中での永遠」にあるというような事を仰っていたのです。
実は私は宗教などが苦手です。
と言っても多くの場合は一神教の話でして、古代ローマや日本の神道のような多神教についてはさほど大きな違和感が無く、哲学というか文化思想的なものとして興味深い部分もあります。
それでも信心深く宮参りを欠かさないとかそういう自分は全く想像できないのですが、そんな私にとっても「繰り返し、循環していく中での永遠」という言葉は胸を打ちました。
それは「繰り返し、循環していく中での永遠」というのが私がテーマとしている「散り姿」にとても通じる部分があって、自分がなぜそこにこんなにまでも惹かれるのかという答えを付きつけられた気がしたのです。

宮司さんが言っていたのは建築に対するお話で、ヨーロッパの寺院などは石造で何100年と持ちますが日本の寺社などは木造で頻繁にメンテナンスや建て替えをしなければ崩れてしまいます。数10年ごとに建て替えるものもあるのだとか。
日本が地震大国、災害大国であるが故にと言う事もあるでしょうが、しかしヨーロッパなどの当時の建築技術などの多くは埋没してしまっているのに対して、日本の宮大工というのでしょうか?その方たちは今なお現役です。
もちろん現代の技術も取り入れて進化していますし、長く使われなかった技術に関しては復刻させるのが難しいものもあるようですが、かなりの技術は継承されているそうです。
ちょうど最近、唐招提寺の金堂の大修復のドキュメントなどを見ていたのですが、日本の伝統技術を今なお継承している方達の素晴らしさに感心してしまいました。

ただ私は建築技術などに関しては全くの素人ですし、その事に興味はあっても自分に響く部分があるわけではないのですが、そうした文化や伝統の中で育ってきた自分が「花が咲き、散って実を付け命を循環させる」という事に惹きつけられたことの必然を見つけてしまった気分でした。
つまり「再生(循環)」の象徴としての「散り姿」でもあるわけです。


この「無常」と「再生(循環)」、無常は「永遠ではない」と言っているかのようですが、日本人の価値観は「そのままでない物こそ永遠なのだ」と言っているかのように感じます。
無常であるからこそ再生・循環できるわけで、無常を受け入れればこそ「そこに永遠があるのだ」と。
この二つが揃った時、自分が散り姿に惹かれ拘る理由が明確に見えてきたのです。

まだまだこのテーマを描ききるには写真の腕も人間力も未熟ではありますが、もし私の写真の中から「無常」と「再生(循環)」を一片でも感じて頂けたら嬉しく思います。

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